南アフリカ競馬: Mauritzfontein Stud Farm

Mauritzfontein Stud FarmはHarryとBridgetのOppenheimer夫妻による生産牧場として、南アフリカ馬産の中心地となるCapeやNatalからやや離れたKimberleyを拠点としました。

Oppenheimer家と南アフリカ

このOppenheimer家はドイツのヘッセン州にあるFriedbergが由来で、Harryの父Ernest Oppenheimerは当地の煙草商人Edward Oppenheimerの息子として生まれました。Ernestは17歳になるとロンドンでダイヤモンドを扱うDunkelsbuhler商会に入社します。ボーア戦争がイギリスの勝利に終わった1902年には南アフリカに派遣され、Kimberleyでダイヤモンドの買付を行っています。また年の離れた兄Bernard OppenheimerもVaalのダイヤモンド採掘業者の会長になるなど南アフリカのダイヤモンド産業と強い関係を持つ一家でした。
1917年にErnestはアメリカのJP Morgan銀行と組んでアメリカとイギリスで資本を集めAnglo American Corporationを設立しました。Anglo Americanは南アフリカJohannesburg周辺の金鉱の採掘権を得て成長する一方、ナミビアのダイヤモンド鉱床の採掘権を手に入れています。さらに1926年にはDe Beersの株を握って支配するようになり、さらに2年後にはザンビアで銅の採掘を行うなど南部アフリカでの地下資源を握ることで事業を拡大しました。Anglo Americanは今日でも資源メジャーの一角として名が知られています。
1957年にErnestが亡くなるとその息子Harry Oppenheimerが継ぎました。Harryもまたその息子Nicky Oppenheimerに継がせますが、21世紀になってAnglo American、De BeersともにOppenheimer家の手を離れています。背景に資源メジャーを取り巻く環境の変化があり、2011年に一家が持つDe Beersの株をAnglo Americanが買い取り、Nickyとその息子Jonathan OppenheimerがDe Beersを去ることで、Oppenheimer家による直接的な南アフリカの地下資源への関与はなくなっています。

Oppenheimer家と競馬

Harry Oppenheimerは南アフリカに生れますがイギリスで高等教育を受け、第二次世界大戦中はイギリス軍の一員として北アフリカでの戦闘にも参加しています。また、戦中に南アフリカのロベン島で後方勤務をしていたBridgetと知り合い、結婚しています。
戦後、HarryはDe Beersの拠点となっていたKimberleyの選挙区から議員に立候補します。イギリス系のバックボーンを有する彼は反アパルトヘイト・反共産主義の立場に立ち南アフリカ的なリベラルを標榜する進歩党(Progressive Party)に属し、議員を辞めてからも有力な支援者であり続けました。この政党はその後の変遷を経て、現在の民主同盟(Democratic Alliance)のルーツとされています。
選挙への出馬のために夫妻はKimberleyに居を構える必要があり、そのために近郊でMauritzfonteinと呼ばれていた1820年に建てられた古い家と厩舎そして広い胡椒の農場を見つけたことがMauritzfontein Stud Farmの創始となります。1949年にYearling SaleでHarryは最高額となる牝馬を含む2頭の牝馬を落札しましたが、これは成功には結びつきませんでした。一方、1950年には父Ernest Oppenheimerが所有するOssianがTurffonteinのSummer Hを勝っていますが、このOssianは夫妻から父親に贈られたものだったようです。
Oppenheimer夫妻にとって最初の成功馬となったのはPrince Bertrandです。4歳の時に購入し、そして1953年にKenilworthのMetropolitan Hを人気薄ながら勝利して、初めてのビッグタイトルをもたらしました。当時女性はRacing Clubのメンバーにはなれなかったため、Bridgetはカーラジオでレースの実況を聴いていたということです。また、ErnestはPrince Bertrandが勝つ夢を見たとかでこの人気薄に当時の100ポンドという大金を掛けていたということですから、イギリスの上流らしさが垣間見えます。
Bridgetは競馬にのめり込むようになり、南アフリカにおけるOppenheimer家の資金力及び影響力もあって、競馬界に大きな影響を与えます。彼女は女性として初めてJohannesburg Turf Clubのメンバーに選出されています。
Mauritzfontein Stud Farmはその長い歴史で三冠馬Horse Chestnutを出し、他にもDurban Julyを6勝、SA Oaksは12勝などの輝かしい成績を残してきました。2013年に牝馬三冠を達成したCherry On The Topもその栄光を飾る一員です。黒地に黄色のラインが入る胴に黄色の袖と帽子を組み合わせた勝負服*1の所有馬は夫妻の共同名義で、Harryが2000年に亡くなった後はBridgetの単独名義となって出走していました。単独名義の時代にもBouquet-GarniやForest PathそしてCherry On The TopといったG1馬を産みだしています。そのBridgetもCherry On The Topが牝馬三冠を達成したのと同じ年の2013年10月に92年の生涯を閉じ、南アフリカ競馬の一時代が幕を下ろしました。遺されたMauritzfontein Stud Farmは25人いるスタッフの手によって運営が続けられています。
夫妻の競馬好きの血は娘であるMary Slackに受け継がれていたようで、彼女は独立してWilgerbosdrift Studを開設しています。Cherry On The Topの父Tiger RidgeはWilgerbosdrift Studに導入された種牡馬です。またMaryの娘Jessicaも競馬に関わることを選んでいます。

*1:black, yellow sash, sleeves and cap